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美容整心メンタルこころの研究室

心脳問題

最近山本貴光、吉川浩満の「脳の世紀を生き抜くー心脳問題」を読んで、思うところがあったので、再び心脳問題を考えてみようと思う。
山本と吉川は慶応藤沢キャンパスの卒業で、僕より二周りも若い新進気鋭の哲学者と紹介したいところだが、実の所何が専門なのか僕には分からない。「哲学の劇場」というウエブサイトを主宰とあるが、そのサイトをまだ読めていないので、その実態はつかめていない。
とにかく、よく整理された本である。文中で、くり返しサマリーが述べられ、読者が迷わないように配慮がされているが、問題が問題であるだけに、著者の言い回しに翻弄されて、つい迷路に入ってしまい、どこかはぐらかされたような気がしてもそれが明文化出来ないもどかしさが残った。
それは多分に小生の貧困な能力の問題であろうが、しかしこれを機に心脳問題をもう一度整理し、問題の根幹をなすものが何であるかを見ることは自分にとっても有用と思うから試みてみようと思う。

心脳問題はジレンマから始まった。(dilennma;二つの前提の二者択一の板挟みになり悩むこと)「日常の経験」と「科学の説明」の間のジレンマ、例えば愛するおばあちゃんが亡くなった悲しい現実の気分と、感情中枢が興奮しているにすぎないという科学的な説明の間のギャップに感じるジレンマ。
そのジレンマを解く答えの一つが脳心因果説である。脳の働きが00であるから、あなたの思考、感情、行動は△△になるという、脳を心の原因とし、心を結果とする考え方である。
しかしこれは、物質の脳の機能と非物質の感情というカテゴリーの違うことを同列に並べて関係づけようとした誤りがあるとして、これをカテゴリーミステイクと言う。例えば、同じ椅子に対してデザイナーと物理学者の評価を比べても、観点が違うから意味のないのと同じことである。
もう一つが脳還元論である。あなたの△△という思考、行動、感情は、実は脳の00という働きに過ぎない、脳さえ分かれば心はわかるとするもので、人間的なあらゆるものを脳の機能に還元して、は実は脳の働きに過ぎないとする立場である。すると、脳が世界の全体を生み出さなければならなくなるが、脳もその世界の一部であることから矛盾が生じパラドックスになるというものである。

心脳問題は「人間とは何か」から発した問題であり、人間はモノと心の二つの要素で説明されるので、心脳問題も4つに分類集約される。

① 人間はモノである。

人間の本質は物質だけであるとする唯物論。「脳が解明できれば、心の事もすべてわかる。」とする、DNA二十螺旋構造のクリックやノーベル賞分子生物者利根川進が言う理論で、それを物理主義的唯物論という。それに対して創発的唯物論は、実在するのは物質だけだが、心は脳という物質から創発されると考える立場。創発とは、個々のレベルでは存在しない性質が、個々の要素が関係し合うシステムのレベルにおいて生じる事を言う。(例えば、鳥のⅤ字飛行は一羽の鳥では無い性質が鳥の群れが創発した、と考える。)創発主義的唯物論では、心は脳という生物学システムから創発していると説明する。

② 人間は心=唯心論

人間の本質は心だけであるとする立場。
全てが心に還元できてしまい、モノは実在しないことになる。
人間が意識しているものだけが存在する、人間が認識しているその限りにおいて世界は存在する、と考える。

③ 人間は物と心=2元論

人間には物質の要素と心の要素があり、二つの要素は互いに還元できないとする。つまり、心は物質の側から解明しつくせないし、物質も心の側からは解明しつくせない。
心とモノはどのような関係にあるかによって、1)相互作用説:心と物は何らかの手段で相互作用する。(デカルトは、松果体で脳と心が相互作用するとした。)2)平行説:心と物は厳密な並行関係で完全に独立し、作用し合うことはない。(スピノザの考え)3)随伴説:脳の働きに随伴して心が生じる。(チャーマーズの考え;心は確かに物質を条件としてそこから生じる何かであるが、それは物質の法則だけでは解明できない、科学が探究してきた物質の法則の他に精神の法則を探究するべきだとした。)これは創発主義的唯物論と基本的には同じで、心の存在を認めたくない人は創発主義的唯物論をとるし、精神に重きを置く人は、随伴説をとるだろう。

④ 人間は、ものであり心である=同一説

物としての人間と心としての人間は同じモノの異なる見え方とする理論。人間は物でもあるし、心でもある。
しかしその同じモノが今問われている人間そのものであることから、理論的には答えになっていない。
養老たけしは、心は脳の構造が可能にする機能であるとし、構造と機能は同じモノについての異なる見方に過ぎない、と言っている。

この本では、これら4つの理論はいずれも不完全であるとして、それをカントのアンチノミ―(二律背反)理論で解説し、矛盾を証明している。
唯物論、唯心論はアンチノミーがなかったことにしているだけで、二元論はカテゴリーミステイクにならざるを得ず、同一説は意味不明な教説にとどまるほかないという。

日常の経験[おばあちゃんの死による私の悲しみ]と科学の描写「感情中枢の興奮状態』との対立、ジレンマをどう考えるか、この違和感をどう解決するか。
これを今まではカテゴリーミステイクといって片づけてきたが、両者には抜きがたい関係性があるようにしか思えない。この解決不能な問題を哲学者大森荘蔵は「重ね描き」という理論で解消しようとした。このジレンマは対立ではなく日常描写に科学的描写を重ね描きしているに過ぎない、イラストの上にレイヤーで解説するようなものだ、ということ事でジレンマを解消出来るとした。
大森は二つの世界を混同(カテゴリーミステイク)してみるのではなく、重ね描きとしてみることを提唱したのである。

まとめると、「おばあさんが亡くなった悲しみという日常の経験」と「感情中枢の働き」という科学的な記述の働きのどちらが本質的か、という問いには日常の経験と科学的な記述を同列に並べてその優劣を問うことはカテゴリーミステイクであることが分かったが、それを「重ね描き」で理解すればジレンマは解消することが明らかになった。

しかし、ジレンマはここで新しい問いに代わるという。それは、悲しみと感情中枢の働きという二つの世界の関係が、本来は重ね描きであるのに、なぜ人の気持ちの中ではジレンマとして現れてしまうのかという第二のジレンマの問いである。この問いは心脳問題が決して自己完結出来ないことを示している。心脳問題は原理的には、何が正当化を問う権利問題(疑似問題)であるが、現実においては、実際は何が起きているかを問う事実問題としても扱わねばならないということである。
権利問題と事実問題のギャップ、ジレンマは必ずな政治経済的状況などの社会的文脈のの上で喚起されるから、心脳問題は社会問題に向かうことになる。

そこでは問題は哲学から社会学に広まっていく。その分析は、ミシェルフーコーの規律型権力構造からドゥルーズのコントロール型社会に及び、情報テクノロジーとバイオテクノロジーとしての脳科学の役割に言及して行く。そこでは抗精神病薬が健常者の精神をコントロールするようになる「美容薬理学」や遺伝子操作による個人レベルの優生学がジーンリッチ階層を産む予想などが登場し個人的には非常に面白かったが、そこまで拡散しなくとも、相対性理論、量子論などの物質の理論とは別に、「精神の理論」を見出す方向で解決を図る努力があっても良いのではないか(カオス、複雑系システム、量子論的な考え方の導入で)と言うのが私の率直な感想である。

脳からの何らかの信号が感情という非物質の現象を創発しているのなら、感情が信号化して脳に何らかの脳の生理的物理現象、信号を起こすこともありうることになろう。様々な思いが、一つ一つの思いとして信号化し、脳内で生物物理的な変化を起こし、それらの要素が複雑系のシステムで共時的に脳内全体に働き、結果としてまったく別な物理的変化を創発しそれが再び信号化して、複雑な心の葛藤として、また、えも言われない気持ちとなったり、あるいは感情のクオリアとして体験すると考えられなくもないのではないかと思う。
つまりニューロン同士だけでシステムを作るのではなく、心も信号化し一緒にシステムを作り複雑系システムとなり心を創発するという考え方である。ここでは二面性、相補性、共時性など量子論の考えが基底にあり、複雑系システム、創発の概念が適応される。

脳と心を、物質、非物質の対立項でしか考えていないことに間違いの可能性はないか。
あるいは、基本的に物質から非物質は生じないという先入見があるのも間違いかもしれないのである。

宇宙の誕生も、非物質から物質が生じたのではないのか。そのレベルで「心とか生命」の成り立ちは考えるべきではないのか。
物質と非物質とは、やり取りすると仮定してみるのも良いだろう。
養老タケシが言うように、脳と心は構造と機能の関係だとすると、カテゴリーミスではあるが、カテゴリーを超えてやり取りすると考えるのである。
 ではそのやり取りの具体的な現象を示せということになるのだろうが、それは宇宙の起源を証明するようなものであろう、と詭弁を弄しておきます。

個人的な直感では、物質と非物質の狭間に霊性という存在が介在するのではないかと思っている。量子論は、従来の物質の法則である相対性理論の限界を示したが、量子論自体の限界をも感じ取り、相補性,不確定性、共時性、テレポーション、一元論的世界観などが精神の成り立ち迫るものとして親和性を示している。
霊性Spiritualityという概念も、案外、ここら辺の物質と非物質のやり取りの場にいるのではないだろうか、というのが僕の妄想です。
物質の理論だけで万物は動いていないことは明らかになりつつある。それを補うのは、物質も非物質も束ねて統合する超越的な存在に通じる霊性の概念が必要な気がしてならないのである。