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美容整心メンタルこころの研究室

ポジティブ心理学-幸せの心理学



心理学、特に臨床心理学は戦後目覚ましい進歩をとげたが、そこでは精神的な障害や弱さのための学問になっていて、臨床医学では大きな貢献をしてきたが、本来心理学はネガティブな精神機能による障害や弱さだけを研究するものではなく、人間の優れた機能human strengthについても研究することであったはずであるとの主張が今世紀になってから強まってきた。
こころの弱い部分に注目することは、20世紀におこった戦争などの大きな出来事に遭遇して困難の中にある人達を援助するにあたっては、こころの中の弱い部分の知識や理解が不可欠であったし、困難の中にある人を助けることには緊急性があり、より優先して取り組まれるべき課題でもあったから仕方ない面もあったと思われるが、しかしそれでは心理学が人間が経験することのある一面しか扱ってこなかったことになる。
1998年に、あめりか心理学会会長であったセリグマンは「心理学が社会の中で応用される場合に、弱いところを補い援助するためだけではなく、人間の持つ良いものを育み養うために、もっと力がそそがれるべきである」と主張した。
そうして「精神病理や障害に焦点を絞るのではなく、楽観主義やポジティブな人間の機能を強調する心理学の取り組み」として、ポジティブ心理学が誕生した。
ポジティブ心理学が大切にしていることは、「自分のこころの働きの強いところ、つまり長所を大切にして、それを生かすようにすることで、人生はずっと充実し、また楽しくなるはずだ」と考えていることである。
ポジティブ心理学は、心理学は心の強い部分を見出して、それを伸ばすという援助が出来るはずであり、それは何らかの問題を持っている人に対しても、自分の弱いところに注目して、それをどうしたら良いかを考える手助けをするのと同じくらい重要と考えている。さらに、将来の問題に備えたり、より充実した人生を送りたいと願っている多くの人たちにとっては、弱点に注目することよりもずっと重要な役割だと考えている。
コップの水が半分になったときに、後半分しかないと考えてしまう人もいれば、まだ半分あると考える人もいる、という例えがあるように、それは同じ状態に対する見方の問題である。きっとうまくいくだろうと希望を持って積極的に考えることは、何かを成し遂げるためには不可欠なことだし、希望や見通し抜きに問題点だけをチェックしても始まらないことも多い、もし問題点のチェックで終わってしまえば、何かが成し遂げられることはありえない。
それだけではなく、問題点が詳細に理解できたとしても、それを改善することだけが解決に繋がるとは限らない。過去に起きたことは取り返しのつかないことかもしれない。取り返しのつかない事実だけを理解しても、将来の改善には全くつながらない。将来に向かって何かをするためには、自分がどうしたいのかが明らかである必要がある。
ポジティブ心理学は、何かを始めるという働きを援助しようとするものでもある。
ポジティブ心理学は、ものの見方を変えれば、すべて上手く行くとするものではなく、そこが単なる啓蒙とか道徳倫理学と違い、学問としての科学性があり、期待されたような成果があることを実証する研究に基礎をおいている。
ポジティブ心理学は日常の仕事や勉強の努力についても、そのストレスによってもたらされる心身への悪い影響を中心的な課題にするのではなく、仕事のやりがいや、そのことに依る熱中、また自分が出来るという自信に目を向けている。ポジティブ心理学が目指しているものは、よい所やポジティブな側面だけに注目して、ネガティブな部分や弱い部分があることを無視することではない。それでは焦点を当てる部分に違いがあるだけで、これまでの心理学の手法と同じことになる。
ポジティブ心理学が目指しているのは、バランスよくこころの働きを見ることである。これまでの心理学がポジティブなものをあまりに無視して来たので、現時点ではポジティブな面の研究が必要と考えているに過ぎない。
そこでは、幸福感、ウエルビーイング、ポジティブ感情、オプチティズム、最適経験、希望理論、情動知能、品性と徳目、強味の研究、生きがい、生きる意味などを扱い、それらを科学的な尺度で評価し意味づけようとしている。
認知、感情心理学では「ポジティブな感情が、創造性や問題解決、意思決定のような認知過程に与える良い影響」についての多くの研究がある。
社会心理学では、自分に関わる認知をポジティブにとらえる傾向である「ポジティブ・イルージョン」、自尊心やセルフコントロールを自己のポジティブな精神機能としてみる「自己効力感」「フロー」の研究、あるいはストレスに対する個人の持つコーピングや抵抗力を高める「楽観性、レジリエンス、自尊心」など応用研究も見られる。
それらについて、これから少しづつみて行こうと思う。

幸せの心理学

裕福さ(GDP)と幸福度の関係

裕福な国の人は幸福なのか
その国のGDP(国内総生産)と住んでいる国民の幸福度との関係を国別に調べた調査がある。
縦軸が幸福度、横軸がGDP(金持ち度)を表している。つまり右になればなるほどお金持ちで、上になるほど幸せであることを示している。右下は空白であるから、ある程度豊かであれば幸福度は一定以下には下がらないことを示し、お金があれば一定程度の不幸からは逃れられること、幸福のためにはある程度の裕福さは必要であることを示している。
しかし左端に位置する貧しい国では幸福度は上から下までばらつきがある。つまり貧しい国では、豊かさ以外の要因が幸福度を左右しており、それが満たされれば豊かな国と変わらないくらい幸福であることも可能であることがわかる。
更に豊かな国をよく見ると、かなり豊かでも、他に比べて幸福度が低く、貧しい国の幸福な国とかわらない程度であったり、以下であったりする。
我が国は豊かさに比べ、幸福度の最も低い国の一つであり、匡を豊かにしたからと言って、国民の幸福度が高くなるわけではないことを示している。
国民一人あたりのGDPと幸福度を見た研究もあるが、ほぼ同じような結果になっている。
また先進諸国で個人別のデータを見ると、個人ごとでも収入の多いことがそのまま幸福につながらない結果となっている。これは経済的な豊かさを、幸福のために役立つもの使われずに、幸福にそれほど貢献しないものに浪費されているためだと推察できる。

学歴、友人、身体的魅力などと幸福の関係
一般には高学歴が社会的成功を呼び、幸福につながるものとか考えられている。そうであるからこそ、多くの人たちは、小さな時から有名な大学に行こうと様々な努力をする。
しかしアメリカのある調査では、出身大学の幸福感への影響はそれほど大きくはない結果になった。日本では事情が違うが、それでも期待したほど明確な影響はないようである。
同じように、友人の数、知能の高さ、宗教心などもあまり影響はないことが示されている。
身体的魅力、美人度なども、それほど幸福感と結びついてはいないと報告されている。
ただ高齢者では身体的健康度がようやく少し関連するという程度の影響力であるとされている。
これは何を意味するのだろうか?
メーテルリンクの「青い鳥」では、これこそ幸福の青い鳥だと思って捕まえると、何でもない鳥であることが繰り返される。そのように、幸福は、こうすれば必ず手に入るという分かりやすいものではなく、どんなものでも手に入れてみると幸福をもたらさないものに変わってしまうようだ。
幸福感は個人差のある感情だが、
幸福感とは、現状では満足できない永遠性を秘めているのかもしれない。

また、得てしまうと有難味が薄れるヘドニック・トレッドミル現象で説明されるものかもしれない。
私達も、数十年前は3種の神器と憧れたテレビ、洗濯機、冷蔵庫やマイカーすら手に入れてしまうと、今ではその頃では想像もできないほどの宝物に囲まれているのだが、その有難味は薄れてしまい、それで人生が充実していると思う人はまずいないだろう。
このように有難味が薄れてしまうことをヘドニック・トレッドミル現象という。
私達は成功や裕福さにはすぐに慣れて̪しまうので、それらをそのまま維持しても、初めて手に入れた時のようには幸せでなくなってしまうのである。宝くじに当たった人でも、次の日にはそのことを思っても、前日ほどはうれしくはない。(おそらく。私は当ったことがないので真実は分からないが)
人間は急速に今の状態に慣れて行くのである。
これは同じような幸福のレベルを維持しようとすれば、常にそのために走り続けなければならないことを意味する。裕福から来る幸福感を維持するためには、常により多くの富が必要になるのである。

幸福感は個人差のある感情的な認知だが、
幸福感とは、現状では満足できないという永遠性を秘めているのかもしれない。