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美容整心メンタルこころの研究室

こころの方程式「P×C×I=D 」と「自律統合性機能AIF」の関係

人は何故こころを病むのだろうか?
こころが何処にあり、どのようなメカニズムで存在しているかが全く不明な現時点では、「こころが病む」という現象を科学的に説明することは出来る筈もないが、それでもなんとなく納得できるような説明は出来ないものだろうか。それを精神科医、滝川一廣の本『「こころ」はどこで壊れるか』を参考にして考えてみた。

まず、「こころの働き」を見てみると、
精神現象は、一人ひとりの個体の脳の内部で生起している現象でありながら、その個体の外に大きな社会的・共同的な広がりを持った現象として存在している。
私が赤いとみているバラは、他人もまず間違いなく赤いという。めいめいの脳内で起きている現象なのに、赤いという認識は個体を超えて共有可能になっている。
つまり、めいめいの脳内で生起している現象なのに他人と共有可能になっている、この共同性が心の働きの特性である。
人間は個体の持つ生理的な感覚知覚機能のまま世界をとらえるのではなく、知覚されたものを、絶えず「意味」や「関係性」の相で世界をとらえ直して、それによって個体の認識世界を社会的に他人と共有可能なものにしていくのである。
「こころ」は最初は外にある。赤ちゃんの心の世界は赤ちゃんの外、つまりその子を取り巻く大人たちの内にある。しかし大人たちは、赤ちゃんに、初から自分たちと同じように「こころ」のある存在として関わっていくことによって、子供の内側にも次第に大人たちのそれと同型の「こころ」の世界が形成されていくのである。
「こころ」は植物のように、自生的に成長、成熟したり、自分一人で恣意的に作りあげたりは出来ないものであり、他者との共同体の中で育つところに、そもそも「こころの不自由さ」の原点があるように思われる。

人間の精神機能、「こころの働き」とは、それぞれの個体の脳の中で生起している現象でありながら、その個体の外に共同的な広がりを持ち、そこにおいて生起している現象だという根本矛盾を抱えている。この矛盾が「こころの不自由さ」の根源ではないかと推察できる。

こころが病むとは何か?
つまり、こころとは、もともと不自由さを本質としているので、「こころの健康な状態」とはこころが自由な状態をいうのではなく、その不自由さにそれなりに折り合いがついている状態ということが出来る。また、「こころを病む」とは、自らのこころの不自由さと折り合いがつかなくなった状態ということができる。

精神医学とは、人間の心の在り方や行動の在り方、社会的な在り方の一般性と、その特殊性としての逸脱や病理を対象とする学問と実践のことをいう。
自然科学や身体医学のように、客観的な物質現象を対象とする学問や実践と違って、自分たちを、つまり主体的な現象を対象としているので、その方法は決してニュートラルなものではありえず、必ず自分の人生観、その人生観に基づく方法的立場というバイアスがかかる。そのバイアスが様々な精神医学の学派、説明を生むことになる。

現在、精神医学は正統精神医学と力動精神医学の、大きく二つの潮流がある。
正統精神医学とは、近代医学の枠の中で、病気をフィジカル、身体的物理的な現象として、できるだけ生物医学的にとらえようとするものをいい、
力動精神医学は、精神障害を基本的にメンタルな現象として、出来るだけ心理学的にとらえようとするものを言う。

その違いを、例えば『人格障害(パーソナリティディスオーダー)』を例にとって考えてみると、
パーソナリティとは、人ととなり、個性というようなもので、人には、それぞれ、その人のその持ち前のものの見方、感じ方、振る舞い方、があってそれがその人の個性を作っている。それをパーソナリティと呼ぶ。
ディスオーダーとはオーダ―(標準)から外れているという意味。
(不登校になって学校に行かないのも、3年間無欠席というのもディスオーダーであるとされる。)
ディスオーダーの概念には、価値判断とか病的かどうかの判断は含まれておらず、オーダー(標準)から外れたものを考えた時、背景にしかるべき病理性が見つかって、その時始めて「病気とか障害」とされるのである。パーソナリティディスオーダーは並外れた個性というところであるが、やはり生きにくいことが多く、対人関係においては、失調を来しやすい。

力動精神医学の流れからは「人格障害」という概念は生まれてこない。精神分析は、人間のこころは元々,非合理なものという立場であり、西欧近代が、自由で主体的で合理的な個人という人間観をうち立てたが、それ故にこそ逆に不自由でなかなか主体的に生きられない非合理な人間存在という現実に直面した時、非合理性のうちに人間の心の本質とらえ直そうとしたのが精神分析、力動精神医学だからである。

岸田秀は「人間は本能が壊れた存在」であるという。本能は生得的に種保存のために合理的合目的に生きる基本様式のようなものであるから、人間にはそういう合理性は失われているから「本能が壊れた存在』とした。力動精神医学では、人間のこころは何でもありで、何をしでかしても驚かない、人間が垣間見せる尽きぬ非合理性には驚かないが、その非合理の構造や成り立ちを合理的に解析することは出来るとし、それが精神分析であるとしている。

正統精神医学は、心の世界は基本的に合理的なものと考える。
人間の身体メカニズムは合理的に作られており、そこに異常が生じ不具合が生じた時に病気だと考える。
同様に人間の認識や感情、行動は基本的に合理的であり、そこに非合理が見られたら、脳なり心に異常が起きたためだとする。
こころの本質は合理的なものとして捉え、非合理性を出来る限り脳の病理のうちに探し出そうとした。それが、精神病や神経症だとするのだが、しかしオーダー(標準)を超えて非合理な、非適応的な振る舞いを見せながら、しかし精神病の診断も神経症の診断もつかない人たちがいる事実に直面した時、(病気でもないのに非合理な人たち)その人たちに人格障害と言う名前を付けて分類した。
これはDSM分類が、基本的に正常ではない状態はすべて網羅して分類することを旨としていたからである。

近代医学は細菌医学を柱に科学性と臨床性を確立してきた。
症状―病原菌の同定―診断―抗生剤の選択という感染症の診断治療のセットが組まれ、近代医学の基本的なスキームになってきた。
進行麻痺は、梅毒スピロヘータの脳感染であることを野口英世が突き止め、精神医学の扱う「狂気」が、近代医学の方式で解決出来た幸運な例となった
しかし、結核では、多くの人が結核菌に感染しているにも拘わらず、発病するのはほんの一部で、結核菌感染というよりも、むしろ免疫力とか栄養状態とかストレスが発病を決める要因とも言え、結核菌は結核にとって必要条件でしかないことが分かってきた。
-物事は複雑に絡んだ関係の網の目からなっていて、網の目のどの結び目を「原因」とみなすかは、ある意味では任意である。

「心を病む」精神失調も同じで、何かある「原因」に特定して還元して説明するのは無理があるが、しかし、ある仮説で単純化して説明することは出来る。
滝川が示した方程式がある。
P×C×I=D
P×Cm×Cph×I=D

Pはパーソナリティ
Cは環境であり、それは二つの要素、Cmは精神的な社会的・心理的環境
Cphは身体的(脳も含む)な環境に分けられる。
Iは出来事
Dは病気あるいは精神失調

精神状態とはこの三つの要素P,C,Iの関数で表される。
人は、それぞれが持ち前のパーソナリティを持って、与えられた環境の中で、様々な出来事にぶつかり合いながら生きている存在である。P、C、Iが全体としてそれなりに折り合いがついており、ぶつかる出来事を、その都度解決しながら生きられている状態を精神的に健康な状態と呼ぶ。他方、折り合いがつかなかったり、解決に大きく失敗すれば、それを精神失調と呼ぶ。
環境Cは精神的な社会・心理的な環境と身体的な環境の二つの要素の相関と考えれば、C=Cm×Cphとなる。

同じパーソナリティの人でも、失調する人もしない人もいる、同じ環境に置かれても、失調する人もしない人もいる、同じ出来事を体験しても、失調する人もしない人もいる、という差異は、失調するかどうかは全体の関数として決まるからである。ある一つの原因に還元できないのは、こころはこの様な全体性に依って決まるからである。病気や失調がどんな構造を持つかは、3要素の中のどれに比重がかかっているかの配分によって決まる。精神科の診断とはその比重を判断することである。
何といっても、あのパーソナリティ(P)では生きて行くのが困難と思えれば「パーソナリティ障害」、あんな大きな出来事(I)に遭遇すれば傷つくだろうとなれば「PTSD」,社会心理的な環境Cmの問題が大きかったと判断されれば「神経症」、身体的環境Cphに決定的な問題があるとすれば、「外因性精神障害」と診断される。
内因性精神障害は、PCIのどこに比重があるか分からない失調であるが、木村敏が統合失調症を「間の病」としていた喩をとるなら、PCIの間として、つまり×の所に比重があると説明する事も出来よう。

しかし、この関数が単純ではないのは、P,Cm,Cph,Iの各々が、さらにはDもが、相互にpositiveにもnegative にも影響しあうという複雑系を成していることである。この複雑系が絶妙にバランスを保って折合いを付けて行くには、宇宙、自然現象が超絶妙なバランスを保っているのと同様に、全体性を自律的に統合するバランス機能がこころにもあるとしか思えないのである。筆者はその超機能を「自律統合性機能AIF:Autonomous Integrity Function」で説明する仮説を提案している。人では、この機能がホメオスターシス、レジリアンスの中心的役割を果たすが、AIFが何らかの理由で機能不全を起こし、バランスが取れなくなると、身体も精神も失調すると考えている。

治療はP、C、Iの各々に働きかけ、バランス、折り合いの回復を図ることであり、精神医学的には、P、C、Iの動かせるところから動かすということになるのであろうが、筆者は、それよりもAIFのバランス機能の回復、強化を図ることが最も大事ではないかと思っている。私の理論では、量子論的な物質波(身体波)と精神波の共振からAIFが機能するとするから、身体的な恒常性の強化をはかることが精神的なレジリアンスを強化することに繋がる。それには、まず免疫機能を強化することが大事であり、それによって精神的なレジリアンスの強化が図られ精神の失調も回復させることが出来ると考える。また、当然のことながら、自我を強化することも重要ではあるが、ある意味では、それは「悟る」「解脱する」ということに近い、極めて宗教的な到達目標につながるから、万人には困難な方法となる。

健康的な精神生活とは、普通にはP、C、Iの「折り合いをつける」ことであるから、失調したこころDを回復させるには、P、C、Iのどれかの要素を動かして全体の構造変化を促すことで折り合いが可能になる。Pであれば、自分のパーソナリティを知ることで、モノの見方、感じ方、考え方、対人関係の在り方を修正することで、Cmであれば、環境調整を行うことで、Cphであれば、薬物療法で身体に働きかけ、あるいは身体的な免疫力をつけることで改善できる。

以上、極めて観念的な説明であるが、これは滝川が、結局は力動精神医学の立場に立っているからである。