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美容整心メンタルこころの研究室

「老いの心理」を考察する①

 急速な高齢化社会が言われるようになって久しい。
 かつて人生50年、60年といわれたころは壮年期を目途に、人生の目標を定め、それなりに努力して、ある程度の目標を達成すれば、もう惑うことなく老年期に入り、しばらくの間、孫の相手でもして隠居生活でもしていればまもなく天国に行けたのであるが、平均寿命が80才を超えるようになると、壮年期を社会の中心、人生のピークとする社会、文化のなかでは、いかに長い老年期を生きるかは大きな問題になってくる。老いは、老いるにつれ低く評価されがちになってくるから、その中で身体的のみならず精神的に、特にスピリチュアルに健康で生きて行くのは容易ではないと思われる。
現在、テレビのコマーシャルの大半がいかに健康寿命を保つかと言うような健康食品関係であふれている。又実際年齢より5歳は若くありたいという願望から美容産業、美容医療も隆盛である。
 ところが、老いの心理をどう考えて行くかという、人間の不可分の関係にある心身の「心」の方の関心は薄い。言うなれば「心のアンチエージング」の取り組みはない。
そこで、『こころのアンチエージング』という新しい医療分野を作り、老年期の心の健康に寄与して行くことを妄想する。
 これは当然ながら、若者に負けないような気力と闘志で、若々しく生きて行くことを目的とするものではない。それは身体のアンチエージングで20歳の肉体が手に入るはずもないのと同様のことだからである。

まずはライフサイクルという考えを理解し、そこから老いの心理を考えてみることにしよう。そこから「心のアンチエージング」の方向性も見えてこよう。

 サイクルはディヴェロップメント(発達)と語源が同じであるというから、発達的な要素が内包されているのだろうが、ライフサイクルには人生の出発点から終了点の「過程、旅」という考えと、一連の時期、段階に分けて捉える「季節」という考えがあうという。普通には、人生が、どのような段階に分けられるかと考えるのが通常の用いられ方だろう。
 この領域の自然科学では、人間の心の変化を外的な観察から追求する発達心理学の流れがあり、一方でフロイトの精神分析から始まったユングやエリクソンの内的で、さらには社会的な観点からもライフサイクルを見る流れがある。

 ひとまず、これらは後回しにして、まずは古くから言い伝えの様に残っている古人の人生の智恵を見てみよう。

 グリム童話の中に「じゅみょう」というのがある。
 神様は、ロバに対して30歳の寿命を与えようとしたが、ロバは荷役にくるしむ生涯の長いのを嫌い、もっと短くしてくれというので、神様は同情して18年分短くしたという。犬も猿も30歳は長すぎて辛いと言うので、それぞれ12年と10年分短くした。ところが、人間だけは、30年では短過ぎると言うので、神様はロバ、犬、サルの分、18,12,10歳の合計40年を人間に与えたという。結果として、人間は30年人間としての生涯を楽しんだ後、18年は荷役に苦しむロバの人生を送り、続く12年は歯の抜けた老犬の生活をし、後の10年は子供じみた猿の年を送ることになった。
 これがグリムの昔話のライフサイクルの話である。ここでは30歳までを人間の人生として、壮年までを人間の姿で、それ以降を老いた動物の姿で示し、いつまでたっても壮年の強さが保たれる、保ちたいとする錯覚に対してシニカルな批判をしているのである。これは、ヨーロッパでは壮年が高く評価されるという文化的背景があるためでもあろう。
 ユダヤ人の言い伝え「タルムード」の中に「箴言」という一書があり、その中で「人間の年表」が述べられている。
10歳ごとに学ぶべき教育目標が掲げられ、60才では英知を備えた長老となることが出来るとされている。ここでは、信仰に生きれば、人の老年は神により守られ、安泰とされているのである。
 しかし現代人は信仰に生きる人ばかりではないから、老人は何かの意味を見出さなければならなくなり、大きな問題が生じてくるのである。
ここで注目に値することは70才代が白髪と表現され、心身の老いが象徴されるが、80歳代になるとゲブラという新しい特別な力が出てくるとされていることである。

 紀元前7世紀のソロンの説では人生70年とし7年を一単位にして10段階にしている。そこでは第7期8期の42歳から56才を言葉と精神の全盛期としている。その後は段々と力が衰え、死という引き潮に乗って立ち去ると述べている。

 中国では論語の言葉があまりに有名である。
我十有五にして学に志す、
三十にして立つ、
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。
七十にして心の欲すところに従いて矩を越えず。

 孔子の説では、老年の70才は衰退ではなく人の完成像になっているのが特徴的である。

 桑原武夫によれば、「天命を知る」というのは、五十の衰えを感じて自分にはこうしかならないと認め運命を甘受して生きようとすることであり、耳順も、あくまでも突進しようとするひたむきな精神の喪失とも言えるし、70才は自由自在の至上境ともいえるが、同時に節度を失うような思想行動が生理的にもうできなくなったという意味ともとれるであろうとしている。
 桑原は逆説的ではあるが、孔子の言葉は、老いることで成長し完成に向かうのは生理的過程に抵抗することによって得られるのではなく、そこに身を任せてこそ得られるのだと言っているのだ。

 ヒンズー教には上級カーストの人々の理想の人生の生き方として「四住期(学生期、家住期,林住期、遁世期)というライフサイクルの見方がある。
 「学生期」は、師に対する絶対的な服従と忠誠が要請され禁欲が義務付けられる学びの時期である。
 「家住期」は、結婚をさせられ家庭を持ち、仕事をして世俗的な建前を重んじて生きる時期である。
この先は人生後半に入るが
 「林住期」は、財産家族など一切と社会的義務なども捨て、人里離れたところで一人で暮らす時期をいう。それは「名づけることの出来ない本質に到達するための努力」「真の自己を求める道に入る為」とされている。しかし、家族など、世俗との接点は少しは保たれており、次の遁世期への移行段階とされている。
 「遁世期」は、この世の一切の執着を捨て、無一文の乞食になって巡礼して生活する老年期をいう。
 人生前半の世俗的な生活から後半の、聖なる脱俗の生活に移って人生を終わるのだが、その移行段階の林住期は、現在社会の「中年の危機」に通じるものがある。あるいは、壮年期に向かって作りあげてきた自我、アイデンディティが瓦解する、ユングの言う人生後半の問題に直面する時期でもある。

 高齢社会となった現代では、さらにもう一度、老年期に入る前に危機が来るのである。

 これをエリクソンのライフサイクルで解き明かしていく中で「老いの心理学」、「心のアンチエージング」を具体化して行こうと思う。