MENU

美容整心メンタルこころの研究室

富士山のご来光とユングの元型

富士山が世界遺産になり、富士登山は益々盛況だそうである。

小生は学生時代は、曲がりなりにも山岳部であり、夏の富士山は知らないが、冬の富士山には登ったことがある。

冬の富士山は強風と氷の世界で、一度滑落すると、止めることが出来ず、まずは死ぬと先輩からいわれていた。

入部一年目で、当時のパーティは5,6人で、先頭はサブリーダー、最後尾はリーダーであり、僕は2,3番目だったように思う。

8合目あたりの、小さな雪庇を越えようとした時に、風にあおられ、飛ばされ一瞬宙に舞い、滑落した。

飛ばされながら、下に古参の先輩部員がいるのが目に入ったので、止めてくれるかと期待したのだが、なぜか避けられて、氷の斜面を滑って行った。

その夏の北アルプスの剣沢の合宿で教わったように、体を反転し、ピッケルを立てて胸に当て制動をかけたが、止まらない。

必死で何回か繰り返すうちに、運よく、小さな岩に身体が引っ掛かって止まり、一命をとりとめた。

先輩から後で、お前を止めようとしていたら、おそらく共倒れになり二人とも滑落死しただろう、と言われた。

確かにそうかもしれないが、チームの一員として、先輩として、人として、その時さっと避けられるものかと、複雑な気持ちになったのも事実であった。

その時の僕の受けた傷は、今も右大胸筋の上にピッケルのブレードの幅で瘢痕となり残っている。

ピッケルの刃で斬るほど体重をかけたのだろう。必死だったんだろうね。

そして、心の傷も、僅かだが、残っている。

さて、富士山登山ではご来光がつきものである。

多くの登山者はそれを見るために、夜明けに合わせて、頂上に立てるよう登るという。

夜明け前の黎明の中、昇る太陽に手を合わせて、拝むのである。

日本人は、日の出を見る(拝む)のが好きで、とりわけ山の頂上で見るのは神々しさも増すようである。

ところで、太陽が昇るのに神を見るのは日本人だけではないらしい。

ユングが、東アフリカのエルゴン山中の住民のところに滞在していた時の話で、住民が、日の出の際に太陽を崇拝することを知ったユングが、空高く昇っている太陽をゆびさして、「太陽は神様か」と住民に聞くと、ばかなことを聞くなという顔つきで否定した。

「東の方にいた太陽は神様だ、と言っているではないか」と追及すると、皆困ってしまった。やがて老酋長が「あの上にいる太陽が神様でないことは本当だ。しかし太陽が、昇る時、それが神様だ。」と説明した、という。

またユングは統合失調症の患者が話した妄想が、ギリシャ語で書かれたマトラ祈祷書の中にある話とうり二つであったことより、人の無意識には、コンプレックスのような個人的な無意識の他に、人類に普遍的な無意識の存在を想定した。

普遍的無意識には、人間の原初的な心性に通じる表象の可能性が存在し、その内容表現の中に共通した基本的な型があるとし、それを原型と名づけた。

それは、あるいは全人類に普遍的に認められているモチーフとも言えるし、また、生来的にもっている行動様式ともいえる。

日の出を神とあがめる様式は、それを単なる太陽としてではなく神として把握しようとする、人間の内部に存在する元型である。

日の出はその原始心像であり、メタファーであると言える。

太陽が神様ではなく、昇る太陽と、それによってひきおこされた、見る者の感動が不可分のものであり、両者が一体となって神として体験されるとユングは説明している。

日本の山岳における、とりわけ、富士山ご来光信仰は、ユングの原型概念を良く説明している。