MENU

美容整心メンタルこころの研究室

心脳問題

脳情報のトリック

ジレンマである。(di-lennma二つの前提:二者択一の板挟みになり悩むこと)人は、「日常の経験」と「科学の説明」との間のジレンマに悩む。(ライル)

おばあさんが死んだ悲しみのジレンマ―科学が明らかにする知見と日常から学ぶ経験との間の対立―感情中枢の興奮と悲しい気分という事実の対立。

だから(脳心因果説)のカテゴリーミステイクによる錯誤

→その解消法として、「だから」という虚偽、ごまかしでやり過ごそうとする。→カテゴリーミステイクでごまかす。⇒脳の働きが00なのだから、あなたの行動、感情、思考は00になる。脳心因果説:脳を心の原因とし、心を脳の結果とする考え方。

カテゴリーミステイク::観点が違えばカテゴリーも異なり、同列に並べて関係づけは出来ない。(物理学者とデザイナーの椅子の見方の違い、ナイスバーディの問題A点→B点→ナイスバーディ)おばあさんを失った悲しみと脳の感情中枢の状態とはカテゴリーが違う、カテゴリーミステイクを犯している。

じつは(脳還元主義)のジレンマを無かったことにしようとする欺瞞―パラドックス(受け入れることが出来そうな前提から受け入れる事が出来そうもない結論が導き出されてしまうこと)

⇒あなたの00という行動感情は、実は脳の00という働きに過ぎない。

クリックや利根川進の還元主義(多様で複雑な事柄を、何らかの基本的な要素に帰着させて説明すること~すぎない。)脳さえわかれば心は分かる。脳還元主義:およそ人間的なあらゆるものを脳の機能に還元して、00は実は脳の働きに過ぎないのだ、とする。

 

錯覚の実験:ニューロンは間違っていない。判断が間違っているだけ。判断は脳が行うが、それが正しいか間違っているか、判断の意味を決めるのは、脳の内側の働きと外側、環境との関係である。

錯覚は知覚判断とそれを取り巻く環境との関係から生まれる。

心の門題は関係の問題、意味の問題の典型ものを考える、悩むという高次脳活動は、結局の脳内の働きと環境との関係であり、そこから生じる意味である。(例として禁断の恋)

心の問題は、脳内活動のみを考えればよいというものではなく、それが本人や周りの人間にとって持つ意味に関わってくる。だから、脳内にだけ探っていくと問題そのものが消えてしまう。それが、心の問題は脳科学だけでは足りない理由。

 

心の働きをすべての脳の働きに帰すると、その脳が世界野全体を生み出さなければならず、しかしその脳は世界の全体ではなく一部であることは明白なので、矛盾が生じる。

 

思考実験:覚醒化脳手術で、自分の能を鏡で見ると、脳は世界の一部であるにもかかわらず、世界全体を生み出すということになる。⇒世界の一部が世界全体に等しいことになる、。

この矛盾の解決法は、頭の中にある脳と見ている脳は別ものと考える。頭にあるのは世界の全体を作り出す神のような存在と考える。(大森荘蔵の脳産教理という)宗教のようなもの)

もう一つの解決法は、あなたの自分の脳も脳から生み出される、その脳もまた脳からという無限後退をみとめることである(ホムンクルスの小人と同じ)。

 

言葉の統語論(文法のようなこと)と意味論。(試験で、「わざわざ教えてくれてありがとう、」の例え)脳科学は統語論、心は意味論の探究が必要になる。

「脳心因果説」「脳還元主義」は科学の領域を超えており、それは信仰の領域。

ソクラテスの「パイドン」

 

このジレンマこそ、古来より無数の科学者や哲学者を悩ませてきた心脳問題が難問である所以を示す核心である。

 

心脳問題を自分の頭で考える。

心嚢問題を4つに整理する。その意味することから、心脳問題の核心に迫る。

脳還元主義、脳心因果説を覆したソクラテスのパイドン、大森の脳産教理から量子論共時性へ。

 

心脳問題の難しさはどこにあるのか。脳科学の進歩の先には答えは無く、脳科学の終着点の先から始まるということ。脳心因果説、脳還元主義の陥った誤謬性の先、ジレンマを避けるのではなく、心が「意味」をどのように見出していくかを解明することにある。心内的な課程のみでなく意味は、環境、社会との関係性できまるが、それは、本当に脳の働きで説明できないものであろうか?あらゆる要素が複雑系システムで絡むとしても、能がそれを解明できないと言い切れるのか?環境社会的要素も信号に変えられないと言い切れるか?量子論の共時性の概念は宇宙にはあり、それが人の心の生産にも適応されているのではないか?

イージープロブレム:脳のメカニズムに関する問題

ハードプロブレム:何故脳内活動の過程に心が伴うのかという疑問

痛いと言うときC繊維が興奮するが、痛みとC繊維の興奮は同じモノか、そうだとすれば、興奮がなぜ痛みにならねばならぬか?別のものだとすれば、それはどこにあるのか?

これをやり過ごす方便が、心脳因果説であり、脳還元主義であった。

心脳問題は「人間とは何か」から発した問題である。

心脳問題の解答は、人間をは物と心の二つの要素で説明しており、4つに分類される。

  • 人間はモノ=唯物論:人間の本質は物質だけである、。心や精神という非物質波存在しないことになる。「脳が解明できれば、心の事もすべてわかる。」お言うクリック、利根川進の立場で、物理主義的唯物論という。創発的唯物論は、実在するのは物質だけだが、心は脳という物質から創発されると考える立場。創発とは、個々のレベルでは存在しない性質が、個々のシス要素が関係し合うシステムのレベルにおいて生じる事を言う。(鳥のⅤ字飛行は鳥の群れが創発した。)創発主義的唯物論では、心は脳という生物学システムから創発していると説明する。
  • 人間は心=唯心論

人間の本質は心だけであるとする立場。

全てが心に還元できてしまい、モノは実在しないことになる。

人間が意識しているものだけが存在する、人間が認識しているその限りにおいて世界は存在する。(量子論のコペンハーゲン解釈に近い)

 

  • 人間は物と心=2元論

人間には物質の要素と心の要素があり、二つの要素は互いに還元できないとする。つまり、心は物質の側から解明しつくせないし、物質も心の側からは解明しつくせない。

心とモノの両方があるとするが、その両者はどのような関係かによって、1)相互作用説:心と物は何らkの手段で相互作用する。(デカルトは、松果体で脳と心が相互作用するとした。)2)平行説:心と物は厳密な並行関係で完全に独立し、作用し合うことはない。(スピノザの考え)3)随伴説:脳の働きに随伴して心が生じる。(チャーマーズの考え;心は確かに物質を条件としてそこから生じる何かであるが、それは物質の法則だけでは解明できない、、科学が探究してきた物質の法則の他に精神の法則がを探究するべきだとした。)これは創発主義的唯物論と基本的には同じで、心の存在尾認めたくない人は創発主義的唯物論をとるし、精神に重きを置く人は、随伴説をとるだろう。

  • 人間は、ものであり心である=同一説

物としての人間と心としての人間は同じモノの異なる見え方とする。人間は物でもあるし、心でもある。(光は粒子でもあり、波動でもある、に近い)

養老たけし心は脳の構造が可能にする機能であるとし、構造と機能は同じモノについての異なる見方に過ぎないと言っている。

 

 

クオリア:意識の質感、意識に感じられる何ごとかをクオリアという。心脳問題の究極の難問といわれる。

茂木は心クオリアはニューロンの発火に還元して科学的に解明されるべきであるとするが、心という非物質は存在しないかというと、システムとしての脳がクオリアを創発するという創発主義的唯物論の立場にいる。

 

心脳問題の核心

dっ心脳問題ンは回答に4つの立場があるが、2千数百年解答は無いままであるが、樋は複雑ではない。

問いは、「痛みとC繊維興奮との関係をどう考えるか?」「心の日常的な経験と、脳についての科学的な知識との関係をどう考えたらよいか」だけのことである。

つまり「人間はものに還元できるか?」が争われているだけのこと。

心脳問題の争点―カントの第3アンチノミー(二律背反)

心脳論の4つの立場はカントのアンチノミ―(二律背反)の正命題、反対命題で矛盾が露呈し、いずれもが正しい答えになりきっていないことが判明した。かつカントは心脳問題に脱出口が無いことを証明し、人間の理性には限界があることを示した。(純粋理性批判)

唯物論;反対命題<世界は自然法則に還元できる。自由羽は存在しない>だけで事足りるとする立場だが、アンチノミーでは正命題を存在する。また、反対命題が出てくる背景には、存在しない筈の心的現象の圧倒的な自明性を前提にしているではないか。

唯心論;正命題<世界は自然法則のみには還元できない。自由は存在する。>しか存在しないとしてアンチノミーを無かったことにしたいという願望に過ぎない。唯心論は唯物論お同じ思考である。存在するのが脳内活動だけ(?)だとすると、目の前にある世界は脳の産物ということになりモノではないことになる。すると世の中には観念しか存在しないことになる。⇒唯心論に反転(月は見たから存在するという量子論では、見た時点では実在する?点が異なる。)

二元論;正命題と反対命題があり、アンチノミーを受け入れるが、その調停はカテゴリーミステイクになってします。アンチノミーは正命題と反対命題は決して混じり合わない排他的関係にあるから、添えを飛び越えて連絡を付けようとするのはカテゴリーミステイクになる。

同一説;アンチノミーをうけいれ,正、反対命題が排他的関係であることとも矛盾しないが、「同じ何か」は一体何かという謎が生まれる。同じなにかは、つまり人間とは何かという心脳問題に帰り着いてしまう。無限循環に陥る。

要約すると、心脳問題の4つの対場をアンチノミ―の観点から眺めてみると、唯物論」は「唯心論」はアンチノミ―がなかったとすることだけで、「二元論」はカテゴリーミステイクに陥りざるを得ず、『同一説』は意味不明な教説に留まるほかない、ということになる。

アンチノミー、ジレンマの解毒剤―大盛荘蔵の「重ね合わせ」理論

アンチノミーの正命題(日常的な経験)と反対命題(科学的な記述)のジレンマをどう解決するか?

人は大抵の事柄では、「見た目にはそう見えるが、実は科学が説明する通りになっているのだ。」と認めるが「脳と私」については違和感が残る。おばあさんが亡くなった悲しみを感情中枢だけで説明されても実感がわかない。そう感じる全人格が「実はそうではない」ことになってしまい、脳と私の問題ではうまく調停できないからだ。

日常の経験[死による私の悲しみ]と科学の描写「感情中枢の状態』との対立をどう考えるか、この違和感をどう解決するか。

これはカテゴリーミステイクといって片づけてきたが、両者には抜きがたい関係性があるようにしか思えない。この解決不能な問題を「ある種の知的な気分」の解毒剤として大森は「重ね描き」という表現で解消しようとした。日常描写に科学的描写を重ね描きするに過ぎない。同じ風景を違う流儀によって描いているに過ぎないという。イラストの上にレイヤーで解説するのが科学的描写であると例えることが出来る。

大森は二つの世界を混同(カテゴリーミステイク)してみるのではなく、重ね描きとしてみることを提唱した。

大森;科学による自然現象の記述は、人間の感情、感覚を(心)を排除した死物化した方法で行っているので、科学的記述は、初めに排除したもの(心)を、排除してきた方法(科学的な)で記述することは無理な相談で虫が良すぎるという。脳がわかれば(脳の究明は心を排除した科学的方法に依ってきた。)、心がわかるという主張はこのような無理な相談であり、越権行為であるが、そうならずに心を描写しようとしても科学で説明できないしその必要もない。痛みの物理的な説明(科学的描写)は、私が感じる痛みの経験(日常描写)の上に重ねられるもの―重ね描き―であると考えればよい。

科学的に描写されるものと日常亭に描写される風景は原因と結果といったよそよそしい関係にあるのではなく、それらはまさに一心同体ド同じモノの重ね描きなのである。

フッサール;自然科学が日常の生活世界から離れてしまい独り歩きを始めてた。これは諸学の危機で会あるので、科学は生活世界に立ち戻らねばならない。

大森は;科学的記述は日常の経験を離れてはいない。重ね描きをしているだけだ。

心脳問題は解消あるのみで、回帰し続ける解決できない疑似問題である。

心脳問題は、解決不能なぎじもんだいである。どんなに時代が下っても、そんなに知識が増えても、その時代の装いで、本質的には何も変わることが無く難問としていつの時代にも繰り返し人間の前に立ちはだかるのでる。⇒心脳問題に終着点は無いということになる。

権利問題:原理的に考えて何が正当か、という問題

事実問題;実際に何が起こっているのか、という問題

サマリー

「おばあさんが亡くなった悲しみという日常の経験と感情中枢の働きという科学的的な記述の働きのどちらが本質的か」という問いは日常の経験と科学的な記述はを同列に並べてその優劣を問うことはカテゴリーミステイクであることが分かり、重ね描きで理解すればよいことが明らかになった。ここで新しい問いに代わる。それは、悲しみと感情中枢の働きという二つの世界の関係が、本来は重ね描きであるのになぜジレンマとして現れてしまうのかという第二のジレンマの問いである。この問いは心脳問題が決して自己完結出来ないことがわかる。心脳問題は原理的には権利問題(疑似問題)であるが、現実における事実問題としても扱わねばならないということである。

心脳問題を権利問題として扱うのはカテゴリーミステイクやパラドックスに陥らないためには必要であったが、それだけでは十分ではない。哲学的な解決の無い問題としてその時代の衣装をまとって何度でも回帰するからである。

権利問題と事実問題のギャップ、ジレンマは必ず特定の社会的文脈、政治・経済的状況や新技術の開発などの上で喚起されるものでるから、心脳問題は社会問題に向かうことになる。

脳の機能が、外部の環境との関係抜きには考えられ無かったように(錯覚の事で見たように)、心脳問題も

外部に広がる環境(社会)との関係抜きには考えられないことになる。

心脳問題との社会的意義

心と脳の関係を考えるには、脳心因果説、脳還元主義ではうまくいまない。

そうなると「ある種の知的な気分」で心脳問題という哲学的な問題に入って行かざるを得ない、心脳問題は解決のありようの無い疑似問題としてその時代、社会的条件の中でその都度回帰してくるのだ。

ミシェルフーコーは、近代社会は規律訓練を通して社会のメンバーが自発的に規範を守るような精神を植え付けていく権力形態にあると指摘した。近代社会の権力は、メンバーが国家や社会の目的に合わせた構想を自発的に行うように仕向けて行く装置、規律型の権力と名付けた。「規律訓練」の他に「生命の管理」、性を総体として管理しようとする生権力でもある。生政治という。

ドゥルーズは、社会全体で共有されていた規範や行動様式が失われつつある現在はメンバーの内面を鍛えるのではなく、その行動を外面的なデータによって直接的に制御して行くコントロール型の社会であるとした。そこでは情報テクノロジーが起きく関与している。コントロール型社会ではメンバーがどのような考え意思を持とうが問題にならず、人間は精神液なレベルではなく生物学的なレベルで管理される。アカンベは、生物学的なレベルで管理される人間の生の有様を「むき出しの生」といい、この政治化、つまり生政治こそが近代の決定的なな出来事であったとする。その状況は、マクドナルド化,動物化、自己家畜化で見られる。

フクヤマは今後の社会に重大な影響を与えるテクノロジーとして、情報とバイオをあげている。バイオのなかでも脳科が大きな影響力を持つとした。抗うつ薬SSRIやADHDのリタリンで、これまで性格、躾など個々の人の内面の問題であったものが、脳の機能障害とされ、薬物によるコントロールの対象となり、かつ健常者の「プラスアルファ」の為に使われるようになった。言わば「美容薬理学」の登場である。また遺伝子操作により個人的な優生学が可能になり、持てるものがデザイナーチャイルドを作りジーンリッチ階級を形成するようになる。

コントロール型生政治と脳工学と脳中心主義のトライアングルが今後の生活を大きく変えようとしている。